- KANAYAMA BLOG -

かなやま幼稚園ブログ

園のようす

1月のごみひろい

こんにちは!
今回は1月のごみ拾いのご報告です📸

さて、今月は月末ぎりぎりになってしまいましたが、毎月のごみ拾いをしてきました
今回は幼稚園の周りを大きく、県道の方まで一周回ってきました(`・ω・´)ゞ

さむい…

布…
Tシャツ⁉

眼鏡のレンズ
ユニークなごみですね👓

今月は酒類と煙草が一層多い印象でした
やはり、季節によって落ちているごみの傾向も違うかもしれません👓
夏はやはりアイスや清涼飲料、秋口は食品類が多かったかなあと
以上、1月のごみ拾いでした


修会で思ったこと
今回は(というかこの間の土曜日)県単位の研修会に先生たちみんなで参加してきました。
と、いうのもかなやま幼稚園の先生が、地域を代表して発表をする機会だったのです。
研修・研究という性質上、発表の内容そのものはここでは触れることができませんが、とても充実した内容でした。

ただ、内容に触れられないからこそ、逆に焦点が当たることもあるなと。
今日はそのお話です。

素晴らしい発表でした
結論から言うと、手前味噌ながら当園の先生の発表はとてもよくできていました。
内容の構成が良いとか、伝え方が上手いとか、そういう“発表技術”の話だけではありません。

観察が細かい。
精度が高い。
そして、そこから一段上がって、考察に至っている。
公開できないのが惜しいくらい。

現場の記録って、表面的にはやろうと思えば誰でもできるように見えるけれど、実際は全然違う。
観察は「見た」だけでは足りないし、記録は「書いた」だけでは足りない。
見落としを減らし、誤解を減らし、論理の飛躍を減らしながら、相手に伝わる形に整える。
これが記録の難しさであり、学生時代から学ぶ幼稚園教諭の専門性。

これらは地味な作業ではありますが、今回の研究発表は日々の積み重ねの賜物です。

こういう評価軸なのねって
ところが、のお話が今回の本題です。
そのレポートに対して本発表の前、レポートに対して事前に周囲から何度も出てきた言葉がありました。
(今回の発表の前に実はもう一回、地域単位の研修会があって、そのときのお話)

「内容が長い」

もちろん、悪意で言っているわけではないのでしょう。
結果、修正がかからなかったことを鑑みると、半分は雑談みたいなところも含まれていたのかもしれません。

しかし、ちょっとそこで少し立ち止まりました。
長いって、何だろう。
本質って、何だろう。

「内容が長い」とは
実際、今回のレポートの内容は決して冗長ではなかった。
言い回しが遠回りだったわけでも、結論が出ないまま同じ話を回していたわけでもない。
ましてルールを逸脱していたわけでも。

むしろ逆で。
内容の明瞭さを担保しようとしていた。
誤謬の回避を担保しようとしていた。
ここが、とても大事なところだと思っています。

たとえば現場の話は、文脈がないと簡単に誤解されます。
一部だけ切り取ると、まったく別の意味に聞こえることもある。
誰かを傷つける意図がなくても、誤解が起きれば結果的に関係は壊れる。

だから、前提を書く。
条件を書く。
例外を書く。
そのうえで、言葉を選ぶ。

そういう手続きを踏むと、語数は増えます。
断言してもいい。必ず増える。

でもそれは「長い」のではなく、「誤解が起きないようにしている」ということでもある。
僕はここに価値があると思っています。

にもかかわらず、これだけ精錬された内容を棚に上げて「長い」だけを取り上げるのって、何なんだろうと。
これは、発表者の努力の問題というより、受け手側の構造の問題なのかもしれません。

短いだけが善か
現代は、情報を短くする圧力が強い。
短いほうが“親切”だとされる。
結論だけ、要点だけ、まとめだけ。

たしかに、忙しい時代です。
「切り抜き」が主流になる時代。
要点だけを早く掴みたいという気持ちは分かる。

でも、要点だけで誤解が起きる領域もある。
むしろ、要点だけで語った瞬間に壊れるものがある。

特に教育とか、子どもとか、人と人の関係みたいな分野は、まさにそれです。
短く言えることほど、たいてい強く言い切ったことになる。
強く言い切った言葉ほど、誰かの思いや現実を取りこぼす。

だから、丁寧に語る必要がある。
誤謬を避けるために語数が要る。
明瞭にするために語数が要る。
責任を持つために語数が要る。

これは、長いか短いかの問題ではなく、扱っている対象の性質の問題だと思います。
「短くまとめて」と言うのは簡単だけれど、短くするほど、言っていないことが増える。
言っていないことが増えるほど、誤解の余地が増える。

つまり、短い文章は、分かりやすいようでいて、実は受け手に“補完”を要求します。
受け手の常識、経験、価値観で補完してね、という形になる。
そしてその補完が、必ずしも一致しないと、すれ違いが起きる。

今回の発表は、その逆をやろうとしていた。
読み手に補完を要求しないように、観察を丁寧に並べ、論理の飛躍を避け、考察に至る道を見せようとしていた。
だから語数が要った。
それを「長い」で切ってしまうのは、今回の件については僕からすれば短絡的。

もちろん、発表は伝わって初めて意味がある。
時間の制約があるなら、尺に収める工夫も必要。そこは現実として大事。
しかし、そこは間違いなくクリアできるようにしていた先生の姿があったにもかかわらず。

今回の「長い」は、単なる尺の話というより、もう少し根の深い話に見えました。

本質って何だろう
本質って、何だろう。
「本質は、短い言葉で言えるものだ。」
そんな幻想が、どこかにある気がします。

でも本質って、たぶん逆で。
“短く言ってしまうと嘘になるもの”の中に、本質があることも多い。

「好き」の一言にも色々あるでしょう。
例えば、趣味的に「好き」。
例えば、慣れているからの「好き」。
例えば、憧れに近い「好き」。
例えば、分かりやすく気分が上がる「好き」。
例えば、愛情表現としての「好き」。

現実は、複雑です。
人はもっと複雑です。

だから、丁寧な言葉が必要になる。
丁寧な言葉は、長くなる。
長い言葉は、責任でもある。

今回の発表は、その責任を引き受けようとしていた。
その姿勢は、誇っていいものではないかと。

「長い」と言われたこと自体は、改善の材料にすればいい。
でも、「長い」だけで価値を測らせる必要はないでしょう。

むしろ、長いことを恐れて、必要な言葉まで削ってしまう方が危ない。
短くした結果、誤解が起きるなら、それは“分かりやすさ”ではなく“雑さ”や”粗さ”です。

うちの職員の発表は、僕が最初に見た原稿の時点からよくできていた。
周囲が何と言おうと、今回の発表は最善の文面で最善の内容だった。
僕はそう言い切りたい。

丁寧に語ろうとした人が、丁寧にされる世界にと思ったできごとでした。