6月のごみ拾い
こんにちは!
今回は6月のごみ拾いの様子をお伝えします📸
毎回、言い訳のように書いていますが…笑
こういうのをこれ見よがしに見せびらかすのをあまり好む性分ではないのですが、
ありがたいことに周囲からの声もいただきまして紹介しています
(この回はご関心が無い方は完全にお読み飛ばしください🤤)
今回は普段と違うコース(場所)をたまにはと
何というか、落ちているごみの質が違う…?
やってみなくてはわからないことってありますね
夏には嬉しいアイスボックス!<アイスボックスー!
今回は大量!ぱんぱんにして戻ってきました(`・ω・´)ゞ
ゴミ捨てはバスの先生にお願いしちゃいます…😋<アリガトウゴザイマス
小さな範囲でも、エリアによって落ちているごみの量とか内容が違うものだなあと
今月の小さな発見でございました
今回のごみ拾い中に考えてたことその③
普段「何考えてるの?」とお声がけいただくことが多いので(何も考えてない🤤)、「地域のごみ拾い」を通してどんなことを考えているかアウトプットしてみたいと思います
記録程度なのでお読み飛ばしください📖
▶「やらない善よりやる偽善」
これは、鋼の錬金術師の登場人物、ユーリ・ロックベルの言葉です。
「…漫画の話かい!」と思われるかもしれませんが、この「偽善で結構、やらない善よりやる偽善だ」というセリフは、現代社会において時に誤解されがちな考え方を端的に表現しているように感じます。
物事を達観した視点でとらえたように、「最低限のことしかしないことが賢い」と思われがちな風潮の中で、「少しでも行動することが重要だ」というメッセージが込められているように思います。
合わせて、未読の方はぜひご一読、またはアニメでご視聴ください(ぜひ無印もFAも)
▶やらない善は悪に同意するのと同じ
ゴミ拾い、特に地域のものを拾うことは、正直なところ僕にとっては「周辺地域への感謝」と「誰かがやるべきこと」という思いが動機であって、自分自身は善行だと思って実行したことはありません。
しかし、「やらない善は悪に同意する」という言葉を借りるなら、見て見ぬふりをすることはその悪行を黙認しているのと同じではないかと。
地域の環境や園児、保護者のみなさんが通る道にゴミが落ちているのを目にすると、無関心でいることが果たして正しいのかと思わざるを得ません。
ポイ捨てを見て無視することは、それを助長することになると思います。
だからこそ、たとえ偽善と思われることがあったとしても、少しでも自分の手でゴミを拾うことに意味があると思っています。
自分が少しの時間を提供することで、環境が少しでも良くなれば。
それがたとえ見えようによっては僕の偽善だったとしても、やらないよりはよっぽど良いのだと思っています。
▶冷笑的な人々はそのままで
もちろん、「こんなことしてなんの意味があるのか」と中には冷笑的に感じる人もいる、むしろ社会の中には増えているのではないかと感じることもあります。
また、ともすれば、SNS全盛の時世には「周りがやっていないことは恥ずかしいこと」と感じる人も多いかもしれません。
その気持ちは現代に生きているものとして一方では理解できますが、そういった人たちが何もしないでいるのを見て、僕自身はそれが普通だと思うのは避けたいと考えています。
冷笑的な人たちはそのままで良いのです。何も変わらず、何もしなければ良い。
「正しいこと」は普遍的で、どの時代においても「正しいこと」だと思うのです。
▶人生、みな我が師
よい師がいれば悪い師もいる。
僕もありがたいことに、(学校を出てから)ここまで「よい師」になる方たちとたくさん出会うことができました。
しかし、一方で日々の生活の中で出会う「反面教師」の人たちからも学べることは多いのです。
ポイ捨てをしている人を見たら、自分はゴミを落とさないように気をつける。
失礼な人がいれば、自分はそのような行動を避けるように心がける。
不摂生な人々を見れば、自分は健康に気を使い、生活習慣を整える。
「自分はしないようにしよう」
自分だって足りないことだらけですが、彼らの行動を見て、あえて自分がどうするべきかを考え、そこに差を感じたならより良い方の行動を選ぶべきだと思います。
▶やらない善よりやる偽善
結局のところ、「偽善」だとしても、やらないよりは良いのではないでしょうか。
「やらない善は悪に同意する」ということは事実で、自分は少しでもゴミを拾い、周囲に微かでも良い影響を与えられれば。
こんなことがなかなか伝わるとは思いませんが、子どもたちには将来、「よい師」になってほしいし、「捨てる側」ではなく「拾う側」の大人になってほしい。
そういうふうに願っています。