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かなやま幼稚園ブログ

園のようす
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9月のごみ拾い

こんにちは!
今回は9月のごみ拾いについてお知らせします

さて、今月はマラソンコースをなぞりながら、小学校の方へぐるっと一周回ってきました
今日は比較的少ないかと思いきや、後半に空き缶やプラスチックごみがたくさんありました
12月のマラソン大会にも向けて、また何度か実施できればと思います


↓副園長のひとりごと(お時間に余裕のある方のみお付き合いください)

ごみ拾いで『自由論』を考える
道にごみが落ちていたとします。

“気づく人”というのは往々にして、自分が捨てたごみではないでしょう。
そのまま通り過ぎても、おそらく誰かに叱られることもありません。

では、「拾おう」と思う人はなぜごみを拾うのでしょうか。
今日はごみを拾いながら、ジョン・スチュアート・ミルの哲学を思い出しました。

■ジョン・スチュアート・ミルとは
ジョン・スチュアート・ミルは、19世紀イギリスを代表する哲学者、思想家の一人です。
代表的な著作には『自由論』や『功利主義論』があり、個人の自由をどこまで認めるべきか、そして社会全体の幸福をどのように考えるのかを論じました。

「自分らしく生きる自由」を大切にしながら、同時に「他者とともに生きるとはどういうことか」を考え続けた人物でもあります。

一見すると、ごみ拾いとはずいぶん遠い話に見えます。
けれども、落ちているごみを前にすると、意外なほどミルの問いが身近に見えてきます。

■自由とは、”何をしてもよいこと”ではない
ミルは『自由論』の中で、人間の自由を強く擁護しました。

自分の生き方については、基本的にはその人自身が決める。
周囲が「その方があなたのためだから」と、簡単に口を出したり強制したりするべきではない。

しかし、ミルのいう自由は「自分の好きなように何をしてもよい」という話ではありません。

そこで重要になるのが、のちに「危害原則」と呼ばれる考え方です。
他者に危害を及ぼす場合には、その行為はもはや本人だけの問題ではない。

つまり、自分自身に関することについては大きな自由が認められる一方で、その行為が他者へ影響を与えるところには、別の問題が生まれます。

自由を大切にするからこそ、自分の行為が他者にどのような影響を与えるのかも考えなければならない。
少し不思議ですが、自由について真剣に考えていくと、他者の存在が見えてくるのです。

■路上のごみは誰の問題か
そう考えると、路上のごみというものは少し不思議な存在です。

捨てる瞬間には一人の行為です。
けれど、一度公共の場所に残されれば、その影響はそこを使う多くの人へ広がります。

景観が悪くなることもあります。
誰かが片づけなければならなくなります。
物によっては、子どもが触れれば危険なこともあります。

「自分一人くらいなら」という行為が、共有している場所に少しずつ影響を残していく。

ミルの考え方を借りれば、”自分だけで完結しているように見える”行動と、”他者の生活にまでつながっていく”行動との境界が、ごみという身近なものからも見えてきます。

■では、ごみを拾うとは何なのか
ここが、少し面白いところです。

ミルは、他人に危害を与えないことを重視しましたが、
「社会にとってよいことなのだから、みんなに善い行いを強制すればよい」
と考えたわけではありません。

むしろ『自由論』では、国家による強制だけではなく、多数派の価値観が個人を押さえ込んでしまうことにも警戒しています。

多数の人が正しいと考えていることが、そのまま一人ひとりにとっての正解になるわけではない。

ここには、ミルが大切にした「個性」という考え方もあります。

だから、ごみ拾いについても、
「落ちているごみは必ず拾いなさい」
という話だけにしてしまうと、少し違うように思います。

大切なのは、

「どうしてここにごみがあるんだろう」
「このままだと誰が困るだろう」
「自分にできることはあるかな」

と、自分のいる場所を自分とは無関係なものとして見ないことなのかもしれません。

誰かに命令されたから拾うのと、自分で周囲を見て考えて拾うのとでは、同じ「ごみを拾う」という行為でも、その中身は少し違います。

■「みんなのため」を考える
そして、ここでもう一つのミルの思想である功利主義につながります。

簡単に言えば、
”自分一人の利益だけではなく、関係する人々の幸福を考えよう”
とする立場です。

ミルは、有名な
「最大多数の最大幸福」
という功利主義の流れを受け継ぎながら、人間の幸福には単純な量だけではなく質の違いもあると考えました。

もちろん、ごみを一つ拾ったからといって、社会が大きく変わるわけではありません。
それでも、自分には直接関係のないごみを一つ拾う。
そこには、自分以外の誰かが使う場所を少しだけよくする、という小さな公共性があります。
「自分が捨てたものではないから関係ない」と考えることもできます。

一方で、
「自分もここを使っているから、少しきれいにしておこう」
と考えることもできます。

この二つの間には、ほんのわずかな違いしかありません。
けれど、そのわずかな違いの中に、社会の一員として暮らすということの一部があるように感じます。

■自由と公共のあいだで
自由というと、「好きなことをできること」と考えがちです。
それはもちろん間違いではありません。

けれど、私たちは一人だけで生活しているわけでもありません。
園庭でも、公園でも、道路でも、地域でも、誰かと場所を共有しています。

だからこそ、
自分はどうしたいのか。
その行為は誰かに影響するのか。
みんなが使う場所をどう考えるのか。
こうした問いが生まれます。

”自分を大切にすること”と、”周囲を大切にすること”。
これは必ずしも反対のものではありません。

むしろミルの思想を読んでいると、個人の自由を本当に大切にしようとすればするほど、同じように自由を持っている他者の存在を考えなければならなくなるように思います。

■ごみ拾いから考えること
幼児期に、「危害原則」や「功利主義」という言葉を理解する必要は、もちろんありません。

けれども、自分の周りに目を向けること。
誰かが困るかもしれないと想像すること。
自分にできることを考えてみること。

そして、大人から言われたからではなく、自分なりに考えて行動してみること。
そうした経験は、ずっと先に学ぶ「自由」や「公共」といった考え方とも、どこかでつながっているのだと思います。

ごみ拾いは、とても小さな行為です。
だからこそ面白い。

哲学というと、難しい本の中にあるもののようにも感じます。
けれども、本来は「どう生きるのか」「他者とどう暮らすのか」といった、私たちの日常にある問いについて考える営みでもあります。

落ちているごみを一つ拾う。
その小さな場面にも、自分と他者、自由と公共、個人と社会という、ミルが考え続けた問題がひっそりと隠れています。
そんな何気ない行為から、「みんなで同じ場所に暮らすとはどういうことなのか」を考えてみるのも、悪くないのかもしれません。