- KANAYAMA BLOG -

かなやま幼稚園ブログ

園のようす

12月のごみ拾い

こんにちは!
今回は12月のごみ拾いの様子をお伝えします📸

さて、今年最後になりますかね
12月のごみ拾いの様子です

今回はお世話になったマラソンコースを中心に回ってきました
季節の影響か、本日は比較的落ちているごみの量は少なかったです⛄

本日のごみたち!
捨てるのはバスの先生にお願いしちゃいます🥺

ンタさんはいい子のところに来る?
さてこの時期、日頃より子どもたちには
「いい子のみんなのところに行くのに忙しいから、僕にはサンタさんは来ないねえ」と嘯いております。
今年の保護者のみなさんのところにはどうでしょうか。

今日は子どもたちに話を聞けば
「ポケモンのおもちゃが届いた!」
「たまごっちもらった!」
「僕はベイブレード!」
と、今年も大忙しのサンタさんの様子が垣間見えます。

しかし驚くことに、いやはや今年は僕のところにもサンタさんがきました。
園長先生には紅茶をいただいたり、はたまたほかの方にもいただきものをしたりして。

子どものクリスマスの象徴のような言葉、「サンタさんはいい子のところに来る」論とは反駁して、
サンタさんは僕のところにまで来てくれるかあと思いつつ、今回はこの言葉について考えてみたいと思います。

一応、今回は心理学や保育・教育学でいうところの「内発的動機づけ・外発的動機づけ」を背景に身近なお話に置き換えて進めていきます。
粗品さんの1人賛否のようなもので、ご意見いただく表現もあるかと思いますが、ご興味を持っていただける方はご覧ください。

はじめに
「サンタさんはいい子のところに来る」
この言葉は、子どもにとって分かりやすく、大人にとっても使いやすい表現です。
しかし同時に、よく考えるほどにこれは哲学的な問いを含んでいます。
今回はこの言葉を手がかりに、「いい子」とは何か、そしてこの季節に子どもたちへ伝えたいことは何かを考えてみたいと思います。

「いい子」とは誰が決めるのか
まず真っ先に問うなら、「いい子」とは誰の基準で決まるのでしょうか。
・言われたことを守れる子
・お手伝いができる子
・怒らずに我慢できる子
・周りに迷惑をかけない子
多くの場合、こうした行動が「いい子」という言葉と結びつきます。
もちろん、それらの力は生活の中で大切です。
ただ一方で、子どもは成長の過程で、「いい子」という評価を自分の内側の納得ではなく、外側からの採点として理解してしまうことがあります。

すると、次のような世界観のきっかけになるかもしれません。
「見られている時だけ正しくふるまう」
「評価を得るために良いことをする」
「条件を満たせば、ごほうびがもらえる」
これは社会生活の基本にも通じる考え方ですが、もしかすると幼い時期の“心の土台”としては、少し息苦しさを残すかもしれません。

「いい子」≠「完璧な子」
ここで大事にしたいのは、「いい子」が「失敗しない子」や「いつも正しい子」という意味ではない、ということです。
そしてこれは、今日できているかどうかの話ではなく、これから少しずつ育っていく途中の話でもあります。

たとえば、
・泣いたあとに、気持ちを立て直す時間が少しずつ短くなる
・怒ってしまったあとに、「さっきはごめんね」と言い直せる日が出てくる
・間違えたときに、言い訳だけで終わらず「ごめんなさい」に近づける
・自分の気持ちを、言葉にしようと試してみる
・相手の気持ちを、ほんの少し想像しようとする
こうした姿は、どれも最初から上手にできるものではありません。
苦手な子や、できない日があって当たり前で、むしろ揺れたり失敗したりしながら、「次はこうしてみよう」に向かっていくこと自体が成長の現場だと思います。

幼児期は「できたかどうか」よりも、「育とうとしているかどうか」。
私たち大人も一緒に手を貸しながら、失敗や間違いが“次につながる経験”になっていけば、それが幼児期にはふさわしい尺度であることが多いのではないでしょうか。

サンタさんは「監視者」か「信頼相手」か
「いい子のところに来る」という構造は、言い換えると「審判」とも捉えられてしまいかねません。
その場合、子どもから見ればサンタさんは行動を見て判断する存在になります。

このとき大切なのは、サンタさんが子どもの心の中で、
・”監視”の象徴になるのか
・”信頼”の象徴になるのか
どちらとして位置づくかです。

監視者としてのサンタさんは、短期的には効果があります。
しかし「見られていないときはどうでもいい」「誰かの目がないと自分は踏みとどまれない」という方向に傾く可能性もあります。

一方で、信頼相手としてのサンタさんは即効性は弱いかもしれませんが、長期的には「自分で自分を調整する」力へつながりやすいと考えられます。
同じ言葉でも、子どもが受け取る“サンタさんの顔”によって意味が変わります。

ごほうびが悪いわけではない
かといって、現実の関わりはきれいごとだけでは回らない場面もあります。
ごほうびの発想自体は、決して悪者ではありません。
ただ、ごほうびにおいて注意したいのは「目的のすり替え」となってしまうことです。

たとえば片付けることの目的が、
「部屋が片付く」「次に遊びやすくなる」ではなく、
「サンタさんの評価を取る」ことへ変わってしまうと、行動の根が外側(からの評価)に寄ります。

ごほうびはいわば“燃料”として役立つことがあります。
しかし“行動の主たる指針”にしてしまうと、子どもの内側にある納得やいわゆる意味づけが育ちにくくなります。

外から励ましは与えられても、向かう方向は子どもの内面に残しておきたい。
ここがバランスの要点だと考えられます。

「条件つきの価値」にならないように
「いい子じゃないと来ないよ」という言い方は、意図せず次のように届いてしまうことがあります。

・「いい子でない私は、愛されない」
・「失敗する私は、価値がない」

大人にそのつもりがなくても、子どもは言葉を表面的に受け取ることがあります。
そのため、行動を促しつつ、人格を否定しているわけではないと捉えられる言い回しを考えたい。

たとえば考えうるに、
・頑張ったところを見つける存在として語る
・できた日とできない日があることを前提にする
・今年の成長を振り返る視点を渡す
こうした方向に寄せるだけで、同じサンタさんの話が「脅し」ではなく「励まし」に近づきます。

大人の頭上でお天道様は見ているか
「サンタさんはいい子のところに来る」という言葉は子どもの世界の話として捉えると分かりやすいのですが、
実はこれに似た構造は昔から言葉を変えて存在しています。
それが「お天道様が見ているよ」

たとえば、
・「努力した人が報われる」
・「誠実にやっていれば、いつか誰かが見ていてくれる」
・「ずるをしても誰かが見ている」
こうした感覚は、日本の文化の中では「お天道様が見ている」という言い方に集約されます。
誰も見ていない場所でも、正しさや節度を保つ。
その背後に「見えない目」があるという考え方です。

ただし、ここには一つの難しさがあります。
現実は、必ずしも「善い行い=良い結果」にはなりません。
努力が届かないこともあれば、誠実さが報われない場面もあります。
むしろ、大人になるほど理不尽を知る機会が増え、「本当に見ているのか」と疑いたくなる瞬間も出てきます。

しかし、「見られていなくても正しくある」という態度は結局のところ、外からの監視ではなく、自分の内側の秩序として生きるための支えになります。

「お天道様が見ているかどうか」は、2つの側面で考えられます。
1つは、社会や他者の目があるからこそ、人は踏みとどまれること。
もう1つは、他者の目がなくても、自分の良心が自分を支えること。

サンタさんも、お天道様も本質は「監視」そのものではなく、子ども(あるいは大人)が自分の中に“正しさの基準”を持つための役割なのだと思います。
そして大人の側にとっては、ここがいちばん現実的です。

お天道様が本当に見ているかどうかは、証明できません。
けれど、見ていると仮定して生きることで、自分の行動が荒れにくくなる。
見られていない場面でどうふるまうかが、その人の人生の手触りを決めていく。

そう考えると、「見ているかどうか」の答えは外側ではなく、内側にあります。
サンタさんもお天道様もは空にいるだけではなく、本当は自分の中に住まわせておきたいですね。

さいごに
僕がそうであったように、プレゼントをもらうことはとても嬉しいことです。
しかし、サンタさんはプレゼントと一緒に、子どもの中に本当に長く残る「自分の中の目」も持ってきてくれてるのかもしれません。

「誰かに見られているから良いことをする」のではなく、「誰も見ていない場面でも「こうしよう」と自分で選べる」こと。
間違えたときに、言い直したり、やり直したりできること。
つい強い言葉が出そうになったときに、いったん飲み込んで別の言い方を選び直せること。
そうした小さな選択の積み重ねが、子どもの中に“自分の基準”を作っていきます。

「サンタさんはいい子のところに来る」という言葉も、外からの採点を強いるためではなく、その「自分の中の目」を育てる経験となるはずです。
「褒められるために」ではなく、「自分が納得できる自分でいるために」。
そこへつながっていくなら、きっと子どもにとってサンタさんは監視役ではなく、信頼の象徴になることと思います。