8月のごみひろい
こんにちは!
今回は8月のごみひろいの様子をお伝えします📸
さて、今回は幼稚園の前を通ってセブンイレブンさんを曲がり
ぐるっと一周してきました(`・ω・´)ゞ
稲にお米がいっぱいついている!
今回のごみはこんな感じ!
飲んでないヤクルト1000とかあって、もったいないなあと🧐
ごみ捨てはバスの先生にお願いしちゃいます🥺
「嫌い」が教えてくれること
トング片手にごみ拾いをしていると、目の前で吸い殻を落としていく人が…
投げた人の視界にはおそらく視界には私の姿も入っていたはずですが、
「世の中すごい人もいるなあ」と思い、その吸い殻を拾いながら、私はふと昔の言葉を思い出しました。
「嫌いな人、嫌な人は自分がまだ持っていないものを持っているから、そう感じるんだよ」
これは大学を出たか出ていないかくらいの頃に、お世話になった方からいただいた言葉です。
この言葉は今までに感情のブレーキにもなり、時には前向きに進むためのエンジンにもなり、時には救命具みたいに効いています。
今朝の吸い殻の場面でも、違和感や嫌悪感は事実以上の熱量で立ち上がってきます。
この心の反応はきっと、外側の出来事より内側の未整理に由来しているのだと思います。
ユングの言う「シャドウ(影)」は、受け入れていない性質が外へ投影され、強い反応として戻ると説明し、アドラーの「劣等感と補償」は、他人の振る舞いが自分の欠けを照らすととっさに比較の火花が散ると語られます。
またニーチェの「ルサンチマン」は、届かない力への鬱屈が道徳化されて矢になる現象を指摘し、『論語』なら「三人行えば必ず我が師あり」と言います。
表現は違っても、どれも同じ方向を指しています。
嫌悪は、学びの警報なのだと考えられます。
では、「嫌い」からは何を学べるのでしょうか。
今朝のポイ捨てに立ちあったとき、こう考えます
「僕はいま、彼の無神経さ(と感じたもの)に反応したのだ」
こうやってラベルを貼ると、怒りよりも先に事実の認識が始まります。
「清掃中の路上に吸い殻が落ちた(事実)。危ないしよくないことである(解釈)。」
そして、行為を抽象化します。
ポイ捨てという具体の裏に、「この人には他人の目線から距離を取れる鈍感力がある」と見ます。
行為そのものは褒められるものではないし、真似もしません。
けれど、この時に僕は「僕は”鈍感力”がこの人より不足している」と考えます。
“悪いもの”にもその裏には技術があります。
例えば、責任転嫁の裏には、期待値を曖昧にしないようにする設計の重要さが見えてきます。
例えば、ずるいことの裏には、撤退の速さや入口基準の厳格さが潜んでいます。
例えば、声の大きさの裏には、事実→解釈→提案という一次情報の相手への強硬的な通し方が見えてきます。
行為は拒否してかまいません。
でも、背後の“メタ”や”スキル”は抽出して、自分のリズムに置き換わるように解釈していけばよいのだと思います。
もちろん、ポイ捨ては良くありません。
ここを曖昧にしないことは大事です。
怒りで自分を削るくらいなら、自分の学びに昇華してみようと試みます。
その方が地域にも自分にも、長い目でみると優しいことになると思います。
あのときにもらったこの言葉は、今でも路上で働きます。
「嫌い」は、相手の人格検定で終わらせるより、自分の度量を更新する材料にします。
良いものは必要な分だけ借ります。
悪いものからは守り方と設計を学びます。
師は選べますし、距離も選べます。
そうやって“選べた”という事実が、怒りや嫌悪から心を軽くしてくれます。
嫌な事柄からは借りて、薄めて、できるだけ良い方向にして返します。
それだけで今日も街は少しだけ軽くなり、自分の心も、同じだけ軽くなるのかなと思った一幕でした。