8月のごみ拾い
こんにちは!
今回は9月のごみ拾いの様子をお伝えします📸
さて、毎月恒例のごみ拾いでありますが
最近では保護者のみなさんに見ていただいているおかげで、
「忙しいから先延ばししよ😙」
とならずに継続できています!
よく見張っていてください!👀笑
さて、今月の印象としては落ちているごみの季節が変わってきたなと
緑が紅葉するように、蝉が鈴虫にその仕事を渡すように
暑さを楽しんだようなパッケージのごみから、豊かな秋を感じるような包装のごみに変化を見せています
このようなことをしていなければ知りえない発見ですね🔍
今月のごみはこちら!
捨てるのはバスの先生にお願いしちゃいます🥺
本日のごみ拾い
今朝、ごみを拾っていたとき
「ありがとうございます」
と通りかかった保護者の方からお言葉をいただきました。
一抹の驚きと、代え難い気持ちを同時に感じた瞬間でした。
「おはようございます」「ご苦労様です」
このようなお声がけをいただくだけでも十分に身に染みるのに、まさか感謝のお声がけをいただくとは。
このごみ拾いは地域への感謝の念でただ一人で淡々と続けているだけ、ましてや誰かに感謝されたいと思っているわけでもないのにです。
その一言は、単なる礼儀としての音に留まらないように感じました。
もし
「誰が捨てたのか」
「自分がやらなくても誰かが」
「片付けるのは行政だ」
といった責任を外に押し出す他責思考でしたら、きっと出てくることのない言葉でしょう。
このような言葉が、気持ちが表層する背景には、目の前の行為を少しでも”自分の過ごす場のできごと”として受け止める意識がある。
実際にそこまで考えておられたかは分かりません。
ただ、今日の僕にはそう映り、お子さんにも同じことを伝える、その姿勢に敬意を抱きました。
ごみを目にしたとき、多くの場合は無関心。
または「誰がこんなことを」という苛立ちを感じるでしょう。
これはいわゆる他責思考です。
正しさの感覚を与えてくれる一方で、問題を自分から切り離し、口は出すけど手は出さない。
状況を変えるためには動かないままにしてしまう。
一方で自責思考は、決して自分を責めることだけではありません。
「自分にできる範囲」を見つけて、手を動かす態度も表します。
原因が自分でなくても拾えるなら拾う、片づけられるなら片づける。
大声で非難する人の方が目立ってかっこいいかもしれませんが、こちらは派手ではなく、多くの承認もないけれど、確実に世界を一単位分良くするんだと考えられる人のための思考。
僕が毎月ごみを拾うのは、園を置かせていただいている地域への感謝であり、また「幼稚園だけがよければよいわけではない」という自戒のためです。
ただ、そこへ「ありがとう」という言葉が加わった瞬間、それは一方通行の行為ではなく、誰かとつながる、往復する活動になります。
手を動かす僕と、声をかけてくださる保護者の方。
役割は違えど、同じ輪の中にいる。
これは実際にごみを拾う作業はしていなくても、「ごみ拾いに参加してくださっている」ことと同じだと感じました。
「誰かのせい」あるいは「環境のせい」だと考える他責思考に対し、
自責思考は目の前を整える力を持っています。
「人の失敗でも、自分ごととして請け負ってみる」
これがまた難しい。
間違っていただきたくないのは今回の内容は決して、
「感謝してほしい」「ありがとうの声をかけてほしい」
という内容ではないということ。
ありがたいけど小恥ずかしいし、保護者の方のお忙しい時間に申し訳がない。
僕が今回言いたかったのは、自立した人間の一言が、世界の仕組みを少しずつ良い方向に変える可能性を感じたということです。
今朝の「ありがとうございます」の言葉は何気ない10文字の言葉だったかもしれませんが、
まさに自責の響きを帯びた言葉でした。
独りの身振りが、その一言で共同の営みに編み直される。
それは大きな励みであり、一人の人間として尊敬すべき姿勢でした。
最後に、保護者の皆さまに改めてお伝えしたいことがあります。
日々、こうした何気ない声がけをいただけることに、心から感謝をしております。
園を運営する立場からすれば、地域や環境に目を配るのは当然の務めかもしれません。
しかし、その務めを「自分ごと」として一緒に受け止めてくださる方々がいるからこそ、私たちの営みは支えられているのだと実感しています。
今後ともどうぞよろしくお願いします。